前回の記事:家族が末期癌になったときの話 3
癌になった家族にできることは、何があるのでしょうか。
私なりによく考えてみると、やれることはたくさんありました。
どこまで実現できるのか、残された時間はもはや予測不可能です。
治療の考え方も大切ですが、悔いの無い人生にしてもらいたいと考えました。
仲直り
私は、自分自身が母と理由あって疎遠でしたが、会ってみれば血の繋がりはすごいもので、恐ろしいほどの時間の差を一瞬で埋めてしまう力がありました。
何よりも、母が私と会ったことで、母の心から物凄く大きなストレスが消えたかもしれないと思えること。
そして、母の話や周囲の友達の話を聞くと、過去に喧嘩して疎遠になった親族が複数いることがわかりました。
私は自分の経験から、仲直りすることは、母のストレスを軽減させ、どんな治療よりも延命につながるのではないかと思うようになりました。
延命につながらなくても、悔いのない人生を送ってほしいと思う。
母に、それとなく疎遠になった母の妹の話をしまたところ、「あんな奴知らんわ」なんて言っています。
私は、何があったのかは知らない(実は知っている)けど、「人を呪わば穴二つ」とも言うから、自分のために許してみたら?と話してみました。
母は「でも、向こうも来ないと思う」なんて、小さな声で言ったのを私は聞き逃さなかった。
同席した姉は「あれは難しそうやわ」と・・・
でも、私には母が妹に会いたそうに見えました。
何かの本で読んだことがあるのですが「女性の嫌いは好きである場合がある」の一文。
母の妹とはすでに話をしていて、母の妹は是非会いたいと言っていました。
お膳立ては出来ているので、後はタイミングを図るだけ。
母には、妹には連絡しているから、いつお見舞いに来てもおかしくないからね、”嫌なら逃げればいいよ”とだけ言いました。
母が一番好きな私が言ったので、母は何も言いませんでした。
母の妹との再会
抗がん剤を投与する1回目の時、逃げたくても逃げれない状況で、再開の日をセッティングしました。
私も立ち会うため、仕事を調整して1日空けました。
でもタイミングが悪かったらしく、母の妹が来ることはありませんでした。
2日後に、母の妹が来ることになり、私の代わりに私の姉が、ホスト(客を招く側の主人)を務めてくれることになりました。
姉にホストをお願いする時、姉は言いました「私の寿命が縮まるわぁ!」。
私には、母が喜ぶ姿しか想像できませんでしたので、安心するように言いました。
再開の前日、姉が母に「おかん、妹が来たらどうする?」と尋ねたら「逃げるわ」と言った。
姉は、物凄く不安になり、私に連絡をしてきました。
再開の当日、私は母に「人を許すことは、自分を許すことと同じ」だと話をしました。
「人は常に過ちを犯すから、それを許さないことは自分の過ちも許されないことを意味する」ことも伝えました。
そして、これからは何があっても家族を大切にすることを約束してくれました。
母は、おそらく何が起きるのかを予測したと思います。
姉には、話していませんでしたが、不安いっぱいの中でホストを務めてくれて、ほんとうに感謝しています。
再会は8年ぶりだそうで、涙の中で昔の話で盛り上がったと聞きました。
そして姉は、母を含む妹と兄から感謝されたと。
母は長女だが、3人兄弟の真ん中。
晴れも雨もどちらも良い
晴れていれば農作物はすくすく育ちますが、雨がなければ農作物は、大きな被害を受けることになります。
光と影は両方存在していて、どちらも良い所が存在するものです。
癌の場合、どうしても悲観的な部分ばっかりに注目してしまうのですが、癌にならなければ得ることができなかったものだってあるかもしれません。
死を予告されることで、恐怖との戦いもあることだと思います。
でも、残された時間をどうやって使うかの選択が出来るとも言えます。
私たちだって、明日生きている保障はありません。
突然の事故により、何の準備も無いまま他界してしまう事だってありえます。
母には他にも、まだ仲直りしたい人がいます。
この調子で少しずつ、再会させようかと考えています。
その度に母が元気になってくれるといいのですが。
私は思った、もしかすると癌は人間にとって一番幸せな病気なのかもしれないと。
抗がん剤は、危険と思ったときにはすでに手遅れになります。
少しでもダメってなったら、すぐにでも緩和治療に移行することをお勧めします。
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