思い出

『備忘録』 阪神・淡路大震災の記憶

『備忘録』 阪神・淡路大震災の記憶

1995年1月17日 5時46分52秒

阪神・淡路大震災は、1995年1月17日に発生した兵庫県南部の大地震。
発生時刻は、5時46分52秒
震源地は、兵庫県南部の淡路島北部と神戸市垂水区の間の明石海峡。
死者:6434名
『備忘録』 阪神・淡路大震災の記憶
当時の私は22歳。
もう23年も前の話なので若い世代にはピンと来なくて当然。
※2018年1月17日時点
30歳代でも、現地と離れて住んでいる人なら記憶が薄くて当然。
それは、阪神・淡路大震災以降も大きな地震が最近までいくつもありました。
あの日、神戸で起こっていた出来事をマスコミは、あえて詳しく報道しなかった。私はそう感じている。
キャスターより目立つ有名無名ボランティアたちが目障りだったと…そんな噂も聞こえてくるほど。
後(のち)の言い訳として、とあるキャスター(筑〇哲〇)がこんな事を言っている。
「マスにとらわれるあまり、ミニへの視点を欠いていた。」
マスとは東京のことで、ミニとは地方のこと。
ただ、この時のミニはあまりにも規模が大きすぎる。
寸断された現地の神戸より、情報が多かったはずの東京テレビ局や新聞社が、当時ほとんど報道しなかった。
そして、震災の約2か月後の3月20日に東京で地下鉄サリン事件が発生し死者が13名でました。
この時を境に阪神・淡路大震災がテレビや新聞といったマスコミから完全に姿を消しました。
「マスにとらわれた」とはこのこと?
このおかげで、神戸の復興にブレーキがかかり遅々と進まなくなりました。
オウム真理教サイドも、この舵取りには驚いたかもしれない。
別に死者の数で何かを言ったりするつもりはありませんが、あのときのマスコミの偏った放送から、私がテレビや新聞の報道に疑問を持ち始めたきっかけとなったのは確かです。

ルミナリエが開催

マスコミから姿を消された神戸が、それでも復興することができたのは、多くのボランティア達に支えられて、復興の手を緩めずに突き進めたから。
このような状況で、その年の12月にルミナリエが開催されました。
これは、当時を知る人なら誰もが思っていたことですが、奇跡としか言いようがない努力のなせる業。
私も、こんな状況でどれだけの事ができるのか…全然期待してなかっただけに、ルミナリエを見た時は本当に感動したことを今でもはっきりと覚えています。
ルミナリエは、かつての神戸の輝きを思い出させる願いが込められていました。

中には「電飾が作り出した一時の幻にしかすぎない!」と批判する者もいました。
それでも私は、この光が打ちひしがれた人々に、勇気と希望を与えたと感じることができました。
お盆に送り火の習慣がありますが、ルミナリエは阪神淡路大震災の送り火のようにも見えます。

それぞれの震災体験

人それぞれに、震災体験があります。
自分の体験を軸に、全体の様子を混ぜながら当時を振り返ってみます。
私は、自分の家が半壊になりましたが車とバイクが動き身体もかすり傷程度だった。
運よく友人の援助もあって、神戸市北区の被害が少ない場所に一時避難することができた。
そんなこともあり、私は救助活動と救援物資の搬送を行っていました。
仕事場でも復旧活動しながら、仕事が終わってからも搬送を行っていたので、それはもうクタクタ。
かなり多くの被災地を、実際に見てきたからこそ語れることもあります。
成人式の3連休が終わり「また明日ね!」って、言った言葉が最後になった人もたくさんいることでしょう。
1月の5時46分なんて夜明け前の真っ暗闇。
第一波の縦揺れに飛び起きるも怖すぎて声も出なかった。
それどころか揺れている時間は、とてつもなく長く感じ、さっきまで寝ていたから寝ぼけているのか、自分の目を疑うほど家は変形して揺れていました。
地震の再現映像でガタガタ家具が倒れるのを見たことがあるかもしれませんが、そんなレベルではありません。
家具が倒れるというか、横にピュンピュン飛んできます。
それはもう恐ろしい状況。
ストーブもなぜか倒れず、火が付いたまま床を横に移動し、窓は開いたり閉まったりを繰り返している。
揺れが収まり、崩れた家具を移動させ、やっとの思いで外に出てみると、空襲でもあったのかと思うくらいに外の景色が変わっていた。
周りを見渡すと、2階建てが多かったはずなのに、すべて平屋のようになっている。
1階が潰れ、2階が1階になる奇妙な光景。

うまく外に出られた人は、生きているからまだマシ。
自分の崩れた家の前で、寝間着姿で呆然と立ちすくんでいる人もたくさんいました。
恐らく、家族が目の前の瓦礫に埋もれていたのでしょう。
そのうち、瓦礫の中から、わずかに聞こえる声で正気にもどる。
その状況を見て、みなが声を掛け合うも、なにをどうすればいいのか全然わからない。
手は凍えるし軍手もない。
素手で瓦礫を触っているので手は血まみれ。

私はロウソクを持っていましたが、ガスの臭いがしたので急いで吹き消した。
よく考えてみると、そこら中でガス漏れが発生している。
私はすぐにロウソクを消したが、ロウソクがガスに引火した人もいた。
そのうち、所々で煙の匂いが立ち込めだす。
真っ暗闇なのに赤い炎で当たりが明るくなり始めた。

この光景は始まりにしかすぎない。
その火は一瞬にして周囲に広がる。
まだ夜明け前だというのに、その火で街の空は真っ赤に照らされた。
一方、消化活動をしたくても水道菅が破裂していて一滴の水も出てこない。
火が迫る中、いったいどうしたらいいのか誰もわからない。
瓦礫の下には、まだ人がたくさんいるというのに、どうすることもできない。

そのうち屋外にいる者は公園に非難するようにアナウンスが流れる。
家族の声が聞こえるけど、避難しないと自分たち全員が焼け死ぬことになります。
救助ができない罪悪感を抱いたまま泣く泣く避難。
公園に来てみると靴を履いている人の方が少ない。
でも、寒いとか痛いとかそんな小さなことを口に出す者はだれ一人としていなかった。
公園にいても焦げ臭い煙が遠くからが漂ってくる。
「これが人の焼ける匂い…」
みなが心に思っていたはずですが、誰もそれを口にはしない。

震災発生から2時間後

震災発生から2時間後マスコミのヘリがたくさん飛んできた。
もちろんマスコミは救助活動をしない。
むしろ火災の勢いをヘリの風で煽っているようにも見えた。
ヘリを見たからか誰かが、ラジオのスイッチを入れた。
こんな時はイヤホンではなく、みんなに聞こえるようにスピーカーで聞いている。
私も耳を澄まして聞いていると、ラジオから聞こえてくるのは〇紫〇也のコメント…
「この光景はまるで温泉街のようだ」

それまでほとんど言葉を発しなかった人達が思わず叫んだ。
「マジふざけんなよ!」
私のマスコミに対する考え方が変わる瞬間でもあった。

救助活動

動けるものは総出で倒壊した建物から生き残った人を救出しようと必死でした。
そんな時マスコミは瓦礫に上ってコメントしている。
家族がまだ生きていると信じて瓦礫を除去しているその上に登りインタビューをしてくる。
「おまえらダボかぁ」
そういわれても自分たちがなにを言われているのか理解していない。
※ダボとは、あほに相当する神戸の方言

彼らは、被災地を見ているふりをしているだけで実際にはなにも見えていない。
私たちは、ほとんど何もできないまま、その日が暮れた。
朝も昼も寒かったのに、あの日の晩は快晴の満月。
風がほとんどなかったのは良かったけど、夜は恐ろしいほどに冷え込んだ。
神戸の街は、街灯ひとつ無いまま再び真っ暗に包まれる。
公園などの避難所には火が焚かれ、その周りで人々は眠ることなく夜を明かす。
その場にいた人たちは、薪となった廃材の炎を見つめながら、これからの未来への不安に言葉も少なく思い思いに沈んでいる。
こんな夜が一晩で終わるはずもなく、なんと一年以上も続いたんです。

救援はボランティアまかせ

政治の初動は遅れ、救援はボランティアに任せっきり。
被災地で、救援物資を配布しているのは山口組系と思われる人も多かったように思った。
創価学会の人たちもボランティア活動をしていました。
自衛隊はとても心強い存在でした。
マスコミは、この人たちを悪く報道するけど個人的にはそんな風には思えない。

生殺し

阪神・淡路大震災で亡くなった人の約9割は15分以内の「圧死」。
マスコミは「即死」と報道しているが15分の圧死が「即死」と言っていいのでしょうか。
15分とは、あまりに長い時間だとは思わないでしょうか。
わずか数秒の揺れでさえ、あんなにも長く感じたというのに…
403名は瓦礫の下で生殺しにされました。
生きながらにして赤い炎で焼かれて亡くなった。
あの時、水もなく、道具もなく、その場にいた私たちはなにもすることができなかった。
私も含め、この経験をした人達は、もう繰り返したくないと思っているはず。

まとめ

阪神・淡路大震災以外にも、たくさん被害のあった大地震や災害はたくさんありました。
いつかまた私たちは共に助け合い災害に立ち向かう日が訪れることを忘れてはいけません。
過去の災害で、なにが起きたのかを知っておくことは未来の災害にきっと役に立つはず。
すでに神戸は立派に復興を遂げました。
でもそれは、いつかまた失われるかもしれないことを知っておかなければいけません。
あの日、テレビが消え、新聞もなくなり、壊れた家の木々を焚いて暖をとった闇の中で、ようやく目の前にいた本物の人の姿を見ました。
でも、その先にあった多くの人の目は失ってしまった後の影でしかなかった。
政府の顔色を伺いながら偏った放送をするNHKをはじめ、スポンサーの顔色を伺いながら偏った放送をするテレビ、広告だらけの新聞、これらは震災のときにはあまり助けてはくれなかった。
今私たちは情報を手に入れるツールを持ち方法や手段も知っている。
これからは、知らないではすまされないのかもしれません。
今は目の前に存在する人を大切にしましょう。


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